レビュー、レビュー、レビュー
「あ~~、お米の音ォ~~」
レビュー3本立て。炊飯器、リゾートホテル、『天気の子』。1週間で色々あって書きたいことが増えてしまった。
2週間前、炊飯器を新調した。メーカーはPanasonic。定価105000円のところ、105000円で買った。もともとこんなに高いものを買う気は無かったけれど、家電商品券を12万円分もらったから仕方ない。
(12万円の残りでオーブンも買った)
この炊飯器で炊いた米はというと、シンプルに美味しい。全ての米が粒立っており、米が潰れることが無い。安い定食屋で食べるダマになったような米にならない。水分もきちんと掃けていて、ニチャニチャ感が全く無い。以前の炊飯器は3~4万のもので、品質は悪くは無かったが、この炊飯器とは比べものにならない。QOLが上がった気がする。卵かけご飯すらも美味い。
この炊飯器、美味しく米が炊けるだけでなく銘柄炊きという機能がある。全国有名銘柄28種の各米について、最も適切な炊き方で炊いてくれるという機能である。スーパーで売っているような品種はだいたいこの機能で炊ける。
家電には金をかけるべきであると改めて感じた。もう安い炊飯器は使えない。
次、リゾートホテル。
今週の頭に沖縄出張があった。当初の予定では月曜出発だったが、社長の計らいにより土曜から行くことになった。というのも、先輩社員が金曜から沖縄に出張しており、「土日で一緒にリゾートホテルに泊まってゆっくりしろ」というお達しであった。社長発案の旅行なので、もちろん旅費は社長持ちである。ありがたや、ありがたや。
宿泊場所はルネサンスリゾートオキナワ。プライベートビーチを所有しており、ファミリーに人気のリゾート地である。ビーチだけでなくプールも室内外に有しており、レストランは7つくらいあった。
(海が透き通っていた)
海水浴をしたり、敷地内を散歩したり、部屋のベランダ(オーシャンビュー)で本を読んだりとめちゃくちゃ満喫した。母親も言っていたが、リゾート地での読書は最高である。「健康で文化的な生活」を体現していると思う。
夜はフレンチビュッフェを食した。メインだけ選び、前菜やスープ、デザートを自分で皿に盛るという形式だった。
(人生で初めてちゃんとしたフォアグラを食べた)
ビュッフェでたらふく食べてしまったが、メインのロッシーニは格別で溶けるように胃袋に入っていった。以前フレンチのフルコースを食べた時も体験したが、満腹でも美味いものは食べられる。その時もメインが来る前に腹八分くらいだった。ちなみにシャンパンを飲み物で頼んだが、1700円した。牛丼が4つくらい頼める。
旅費は社長持ち、食費は先輩持ちだったので無料でリゾートを楽しんだ。ちなみに宿泊費だけで16万円だったらしい。ヒェッ。
(天気にも恵まれた)
最後に、『天気の子』。
『君の名は』を少し尖らせたような作品だった。映像は綺麗で、ストーリーにも面白さはあって良作の部類に入るが、名作とまではいかない、そんな映画だった。起承転結でいうところの「転」の舞台装置として、警察を使ったのが不味かったかなと思う。
広告で「世界の秘密についての物語」と銘打っている通り、ちゃんと「世界の秘密」について回収しているところは気に入った。劇場に何度も行きはしないが、何年か後にまた見たくなるかもしれない。
映画自体は特にレビューを書くほどでは無かったのだが、この作品の感想コメントに「パワプロくんポケット的な作品だ」という書き込みを読んで書く気になった。確かにパワポケっぽい展開だった。
パワポケは野球ゲームの皮を被ったギャルゲーである。野球の練習をするより、彼女攻略を進めた方が遥かに経験点がもらえるのである。そのため、強い選手を作ろうとするなら彼女攻略が必須であり、それがギャルゲーと呼ばれる所以である。
パワポケの彼女候補は基本的に暗い過去やなんらかの問題を抱えており、内容も多岐にわたる。ストーカーから付きまとわれているという現実的なものから、超能力に目覚めてしまった女の子まで様々である。そして何より、ストーリーのベースがボーイミーツガールなのである。
『天気の子』もボーイミーツガールで、恋愛の進み方もすごく似ている。両作品の違いは、主人公が野球をしているかしていないかの違いだけである。ぼくが『天気の子』に対して割と好意的な感想を抱いたのは、パワポケに近いからだろう。『天気の子』が好きな人はパワポケをプレイしてみるといいかもしれない。
炊飯器のレビューを長々書くつもりだったが、それ以上のイベントがあったせいで削らざるを得なかった。リゾート地は本当に楽しい。色んなものから心が解放される。ただ一つ、不満を言うなれば今度は社員以外と行きたい。仲良い先輩とはいえ、何だかんだ気を遣うし。
今月は社員旅行で北海道へ行く。1ヵ月のうちに南に行ったり北に行ったり大忙しである。旅費が浮いて旅行ができる環境は財布に優しい。北海道はまだ一度も行ったことが無いので楽しみである。湿原とか湖とか自然が豊かなエリアに行くらしい。『天気の子』よろしく、晴れるといいなぁ。
雨に唄えば
参議院選挙だった。先週から見始めた『ノーサイド・ゲーム』は選挙特番が原因で来週に回ったので、炊飯器レビューも選挙エントリを理由に次週へ回す。
まず今日はぼくの住む地域では記録的な大雨に見舞われ、朝からスマホの洪水警報が鳴りっぱなしだった。幸い、自宅は周りに河川や山の類が無いので被害はなかったが、近所の施設はいくつか水没していた。南無三。
そういうわけで朝起きると外に意識が向かず、いつも通りの週末を家で過ごしていた。夕方くらいにネットニュースを見て選挙を思い出し、急いで投票所に向かった。気まぐれにニュースを見ていなかったら投票行き忘れていた。危ない危ない。
ぼくの周りの同年代(±5歳)の人たちは、あまり選挙の話をしたがらない。高校の友人の多くは投票に行っていないし、大学同期も投票に行く人は50%くらいの割合である。実際に20代投票率は30%くらいで、体感と統計は合っている。
それが影響しているのかわからないが、周りの人たちは政府や政策を批判することはない。増税されたときも「8%の計算めんどくさいね」くらいの会話で終わった。政治の話がぼくの身近には全く存在しないので、ニュースで見るような「増税反対」の勢力を見ることがない。政治に熱心な人たちは普段はどこに生息しているんだ。
少し前、軽減税率の内容が発表されたときプチ炎上していた。「生理用品が軽減税率対象に含まれないのはおかしい」という具合に。元を辿れば「新聞は生活必需品ではない」という主張だったのだが、紆余曲折の後「生理用品は生活必需品なのに軽減税率の対象外なのはおかしい」という主張に変貌していた。そもそも生活必需品の全てが軽減対象なわけでは無いし、大局的に見れば生理用品を使う人はマイノリティである。軽減税率の対象になるのはなかなか難しい。
論点すり替えの話は別の機会にするとして、この一連の流れに参加している人の中で投票に行っている人はどれくらいいるのかという話である。生理用品を必要とする世代なので10~40代として、多く見積もっても50%くらいだろう。政策を叩く人の半数ほどが投票に行っていないというのはちゃんちゃらおかしい話である。
基本的に政策は選挙で選ばれた人が作るものなので、政策は選挙で投票した人向けに作られるのである。投票すらしない人間の思惑とは違った政治になるのは至極当たり前の話で、「まずは投票に行けよ」と思ってしまう。ちなみに新聞はWEBが身近ではない人にとっては情報を得る数少ないの手段の一つなので、ある意味生活必需品だと思う。少なくとも投票率の高い高齢者層では生活必需品なのではなかろうか。
以前は「老人のための政策ばかりでなんて酷い国なんだ」と思っていたが、若者の投票率を見て「そりゃそうなるよ」と憤りが消えた覚えがある。今ではメディアで「若者は苦労している」という報道を見ると「選挙行かないからなぁ」と思ってしまう。日本で民主主義を広めた人は泣いてるよ。
身近な人にはとりあえず投票に行くことを勧めている。政治がわからなくたっていい。「若者が政治に参画している」という事実が大事で、「若者の投票率が100%でも高齢者の投票数には勝てない」という問題は投票率が上がってからである。
選挙のたびに嫁の「投票に行こうと思ったら親に投票用紙捨てられてた」というエピソードを思い出す。軽く引いた後、教養の大切さを実感した。
シャドーボクシング
「◎▲※§¶〇ΛΦ×」
「荒れているね、どうしたんだい」
「アイツ酷いんだよ!○○って言われたし△△してくるし××が...」
「HAHAHA、多分そいつ今ごろパフェとか食ってるよ」
人を嫌いになったり、逆に人から嫌われたりした経験はあるだろうか。ぼくは人間に対しては瞬間的に嫌いになることはあるが、継続的に嫌いになることはない。「この人と過ごす時間は嫌いだな」と数回感じた場合に、頭の中から存在を消すよう努めている。というか多くの人はそうしているのではなかろうか。
継続的な「嫌い」はエネルギーを使う上、脳のリソースも割かれるのでものすごく不毛である。10代前半は「嫌い」を制御できなかった。家に帰ってまで人を嫌っていた。具体的にはブログや当時流行していた「リアルタイム」という一人版Twitterみたいなものに色々書いていた。思春期だなぁ。
現在は人と会ったとき、好きな人・どうでもいい人に分類するようにしている。数回会った段階で篩にかけ、好きな人との交流にはお金と時間を出し惜しみしないというルールを設けている。好きな人・どうでもいい人の分類間で行き来は無く、好きな人がどうでもいい人になったことは一度も無い。逆も然り。
人から嫌われる、というのは昔ほどよくわからなくなった。10代は自分もそうだが周りの人間も感情のコントロールが下手なので、「嫌われている」という感覚はわかっていた。しかし20代になると周りの人間も大人になった上、多くの人は感情を上手にコントロールしているので「嫌われている」感覚をほとんど感じない。本当に嫌われていないのかもしれないが。
ぼくの目から見て感情のコントロールが下手な人間は大体社会的地位が低い傾向にある。50超えて平社員とか、貧困層とか。人に怒ったり涙を見せたりする人は上には上がれないよなぁ。
大学の友人の1人が継続的に人を嫌うタイプだった。生憎ぼくはその友人が嫌っている人とも仲が良かったので、大規模な飲み会をする時はどちらかしか呼べなかった。毎回「今日は鈴木(仮名)の化石を取ったよ」とポケモンの化石ネタを言っていた記憶がある。
嫌われている方には事情を話して気を使ってもらっていたが、「私は気にしてないけどなぁ」と言っていた。冒頭の会話のように嫌っている人にとっては大問題かもしれないが、嫌われている方にとっては小事である。『多分そいつ今ごろパフェとか食ってるよ』という漫画の作者はこう述べている。
「怒りを抱えているときって、自分の頭の中では相手と戦っているイメージなのですが、実際はシャドーボクシングで自分だけが頭の中で架空の相手と戦っています。
しかも、自分にとって一番嫌な姿で思い出すので、傷つけられた言葉を何度も思い出したり、本来そんなに強くない相手だったのに、ものすごい強敵になっていたり。そして大抵は、実際よりも嫌なやつになっています。
そうやって怒りをため込むうちに、仕返ししたい気持ちになったり、同じ目にあわせたいと思ったり、罰が当たればいいのに……とか、こうなるともう呪いです。」
人を嫌いになるのは自由だが、巻き込みは御免こうむりたい。シャドーボクシングをしている人の中には「一緒に殴ってくれよ」という人も少なくない。その人は君の頭の中にしか存在しないんだよ。
別記。
例の10万円の炊飯器が届いた。次回、レビューする(と思う)。
When You Wish Upon a Star
とある理由で七夕の日には思い入れがあり、ぼくにとっては大事な日である。星に願いを。
洋画が日本で上映されるにあたり、広告代理店の手によって英題が邦題に変えられて公開される。逆もまた然りで、邦画も邦題を英題に変えて海外で公開されている。適訳・意訳・珍訳様々あり、なかなかに面白い。映画に限らず、英語というものがそもそも普及していなかった昭和の時代には小説や音楽も色んな翻訳がなされ、消費者の手に渡っていた。
特にディズニー映画は子供向けのコンテンツということもあり、英題とは関係なしに登場人物を邦題にしがちである。『アナと雪の女王』の英題は『Frozen』、『ベイマックス』の英題は『Big Hero 6』である。『カールじいさんの空飛ぶ家』にいたっては英題は『Up』であり、原型を留めていない。一部の人からは「やりたい邦題」と揶揄される始末である。
『ベイマックス』に関してはCMもあらすじとは全く違う仕上がりになっており、ぼくはCMを見たとき「少年とロボットの心温まる感動物語」だと思っていた。実際には『Big Hero 6』の名の通り、6人の発明家たちが発明品を駆使して巨悪に立ち向かうというものである。CMはもっと違うものにしてほしかった。
邦題から英題に翻訳されたときには、文化の違いを感じる。『おくりびと』の英題は『Departures』で、この単語は「出発」を意味する。邦題は「送る」で「さようなら」、英題は出発で「いってらっしゃい」という「他人の死」への価値観の違いが表れていて面白い。
その他、英題は短くまとめられる傾向がある。ジブリ作品の『平成狸合戦ぽんぽこ』は『Pom Poko』、『借りぐらしのアリエッティ』は『Arrietty』である。逆に長くなるものはほとんど無いのではなかろうか。
スタジオジブリの作品の英題で気に入っているものは『Spirited Away』と『Whisper Of The Heart』である。前者は『千と千尋の神隠し』の英題で、「spirit away」という「神隠し」を意味する単語に由来する。後者は『耳をすませば』の英題で、「心の囁きに耳をすませば」という邦題と英題で繋がるフレーズになっているところがおしゃれである。
Queenの楽曲『Somebody to Love』の邦題『愛にすべてを』や、『Sister Act』の邦題『天使にラブソングを』など気に入っている翻訳・意訳はいくつかある。中でも一番好きなものが『The Catcher In The Rye』の邦題『ライ麦畑でつかまえて』である。
直訳すると「ライ麦畑のキャッチャー(捕まえる人)」で、これは主人公の「ぼくは崖の上のライ麦畑で遊ぶ子供たちが、畑から飛び出して崖から落ちないように捕まえてあげたい。そういう人になりたい。」というセリフ(うろ覚え)に由来する。ちなみに作品をざっくり説明すると、学校を停学になった不良少年の主人公が街をふらふらして生きる意味を見つけるという物語である。正確なセリフは実際に読んで確かめてみてくれ。
『ライ麦畑でつかまえて』という意訳には諸説あり、ぼくが気に入っているのが「主人公がつかまえてほしかった」説である。
上記の通り、主人公は不良少年で所謂「道を踏み外した人」である。そこで最終的に「ライ麦畑のキャッチャー(=道を踏み外しそうな子供を助ける人)」になりたいという夢にたどり着くのだが、主人公は「道を踏み外したくなかった」つまり「ライ麦畑でつかまえてほしかった」という説である。物語を10文字で綺麗に表していて凄く感動した。
ちなみに最も有力な説は「単純に誤訳」説である。訳がなされた当時は、この小説に限らず無茶苦茶な邦題の小説が溢れかえっていたらしい。なお、有名作家の村上春樹は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と訳している。
1年前に見た『レディプレイヤー1』という映画がある。これも「やりたい邦題」だと思っていたが、なんと英題も同じであった。最近気づいたのだが、スーパーファミコンの2人用ゲームを始めると、「player 1」「player 2」と画面に表示される。そして題名の意味を悟った。先入観というものは恐ろしい。
Oh My Soldier
class名とかmethod名とかのせいで各単語の頭文字を大文字にしがち。
今週は別部署のPC納品の尻ぬぐいで軽い出張があり、部長と小1時間ほどダラダラ話しながら社用車(レクサス)で現地に赴いた。レクサスの座り心地は良かったけれど、車の臭いにやられて車酔い気味になった。消臭のやつ取り付けてほしい。
部長に限らないことだが、弊社の人間は2人きりになるとやたらに他の社員の評価を聞いてくる。入社半年は気を使って無難&無難な回答をしていたが、最近は一部の社員の無能さが目立つので遠慮無しに言うようにしている。道中では営業部の営業資料の出来の酷さを部長に報告しつつ愚痴を吐いていた。
ひとしきり人物評価を話した後、部長は「社会人には2種類の人間がいる。」とアメリカンジョークばりの前置きをしつつ語りかけてきた。「兵隊とそうじゃないやつの2種類いて、うちの会社は兵隊タイプが多い」。曰く、兵隊社員は命令されたこと以外は絶対にやらないので、自分で殻を破ることが無いと言う。社長含め管理職の人間は、そういった兵隊社員が多い弊社の現状を嘆いているようだった。管理職側にも責任はあるだろ、と内心ツッコんでいたので、「そういう人材ばっかり採用しているせいじゃないですか」と軽めに刺しといた。
兵隊も存在自体は悪くは無くて、与えられた任務をそつなくこなす人間は組織には不可欠である。比率の問題であろう。それに弊社には確かに兵隊タイプは多いが、それ以前にぼくの目から見ると与えられた命令すらこなせない兵隊も何人かいる。弊社の場合はまずそいつらをどうにかすればいいのではなかろうか。管理職は大変そうだ。
兵隊になるかそうならないかは仕事の好き嫌いもあると思うが、生き方に因るだろう。プライベート重視の人は仕事を「与えられた命令をこなす時間」と捉えるだろうし、「好きなことして生きていく」タイプの人は様々な仕事にチャレンジしていく。フレデリック・ラングブリッジの「二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。 一人は泥を見た。一人は星を見た。」というやつだ。ぼくは徐倫よろしく「星を見ていたい」。
でもきっと兵隊もどこかで星を見ている。
別記。
ヤバいTシャツ屋さんの『ハッピーウェディング前ソング』にハマった。女性のボーカルの声質が良い。
フランクリンバッヂ
今週は火曜に仕事上の締め切り日があり、月・火曜にたっぷり残業したので残りの3日間は抜け殻のようになっていた。頭もロクに働かないので、ちょくちょくtogetterを見ながら世の中のホットな話題とその議論(大抵は水掛け論だが)を読んでいた。
巷では痴漢対策に「安全ピンを持つ」という機運が高まったり高まらなかったりしているらしい。痴漢されたら安全ピンを刺して懲らしめてやれ、という漫画が元となっているようで、togetterにもいくつかまとめられていた。「痴漢には人権なんてないから刺して良い」という過激な主張も見られたが、残念ながら犯罪者にも人権はある。目には目を理論は法治国家では許されてはいない。
「痴漢をする男たちが悪い」という主語が大きい主張や「冤罪で無実の人に刺したら傷害罪になる」という冤罪を盾にする意見があり、最終的には「男を許さない女vs冤罪気にするマン」といういつもの痴漢論争に帰着していた。この手の論争を読むと、お互い手を取り合って「痴漢を減らす」という共通のソリューションを導き出せばいいのに、と思ってしまう。
元の漫画は「声を上げられないならそれ(安全ピン)で刺しな」という流れであるが、そもそも声を上げられないような人がピンで人を刺すことなんてできるのだろうか。日常的に暴力に触れていない人は他人に危害を加えることなんてできないし、声を上げられないほど体が硬直していたら針を取り出して手に刺すなんて不可能だろう。あくまで安全ピンは「勇気の印」で、反撃の意思表示みたいなものだとぼくは解釈している。安全ピンを持つだけで声が出るようになるならば、持つに越したことは無い。
安全ピン所持に賛成の人の99%は、実際にピンを人に刺すことはしないだろう。そういった意味では「冤罪になった場合はどうする」なんて意見は本題から少し外れている。安全ピン運動の本質は、反撃の手段が欲しいのでは無く意思表示の手段が欲しいだけであろう。原爆が外交の手段になっているように。
実際に安全ピンで刺した場合は、痴漢と同じステージに立つことになる。そのときは痴漢共々、法で裁かれれば良い。
この安全ピン絡みのまとめで面白かった流れを一つ。
「この前電車の中で急に女性が急にうずくまって周りの人が手を貸していたけど、動いたのは私を含めみんな女性だった。男は見て見ぬふりで何もしてくれなかった。男って本当クソ。」
「手を貸したら安全ピンで刺されるからね。」
エッジが効いてるなぁ。
ちなみにぼくが20歳くらいの頃は「冤罪がまかり通る世の中なんて酷い」と思っていて、「冤罪になった場合はどうする」という意見を根底に抱いて女性(と思われる)の男叩きに憤りを感じていた。そんな中、「男叩きは女の娯楽」というコメントを読んで娯楽なら仕方ないなぁと思うようになった。金言である。