紆余曲折

いろいろあった。

おわりに

 吃音症というものをご存知だろうか。100人に1人の割合くらいでいるらしいので、多くの人は吃音を患った人に出会ったことがあると思う。少なくとも、ぼくの友人は皆出会っている。ぼくが吃音症であるからである。

Wikipediaによると、吃音症とは「言葉が円滑に話せない疾病、または障害である」とある。まさにその通りで、言葉を円滑に話せない。不治であるためぼくは障害と言った方が適切であると思う。もっと正確に言うと、人前で円滑に言葉を話せない。独り言では吃音は出ない。ちなみに、吃音が出ないことを「どもる」と言う。以下、どもると記述していく。

歌っているときや皆と一緒に声を出すときも、どもらない。一人で、人前で話すときだけどもるのである。僕の場合は、大勢の人の前になればなるほど吃音が酷くなる。最初の一音を出すのすらままならない。口をパクパクしている様は死にかけの魚のようである。

 

 この疾病のせいで散々苦しい目に遭ってきた。話す度に笑われ、真似され、影口を叩かれ、怒られ、咎められ。何か言われる度に、場を誤魔化すため薄ら笑いを浮かべた。今ではもう吃音について何か言われる度に、条件反射のようにこの笑みが出てくる。「すみません」という誰に何を謝罪するのかわからない言葉とともに。

小学校から中学1年の頃までは、人前で発表した際にどもると夜にそのことを思い出して泣いていた。何故自分だけこのような目に遭うのかさっぱりわからなかった。中学の2年くらいにもなると、もはや感情は動かなくなっていった。誰に何を言われようと「ごめん」「すいません」と笑みとともに頭を下げていた。この頃に初めての彼女が出来たのだが、こんな人間のどこを好きになったのかさっぱりわからない。

ちょうど彼女が出来た頃、自殺願望も沸いていた。生憎リストカットや飛び降りなどをする勇気が無かったので実行に移すことは無かったが、常に死にたいと思っていた。この頃に吃音が不治だと自覚したからである。

 

 小学校の終わりくらいに吃音という言葉を知った。自身の足枷に名前のついた瞬間は、出口が見えた心地であった。他にも自分と同じような人間がいることを知ったからである。その後は母親と病院に何度か通った。何回行っても結果は変わらなかった。不思議に思って当時やっと使えるようになったWebで調べてみると、不治と書かれていた。ぼくは病院に通うのをやめた。

不治とわかってからも、何とか治そうと努めた。ある本には「抑揚をつけると良い」と書かれていた。とあるサイトには「腹式呼吸をするといい」とも書かれていた。また他の本には「リズムをつけると良い」との記述もあった。調べて試してを繰り返し、吃音を治そうとした。結果はもちろん駄目だった。リズムをつけて話そうとしたときなんかは「何それ頭大丈夫?」とも言われた。もっともなお言葉である。急にミュージカルが始まれば誰でもそんな反応をする。

あらゆる方法を試し、挫折を味わった。本当に不治なんだと自覚してからはもう話すのが苦痛でしかなかった。友人たちと言葉を交わすことは人並みにあったと思うが、楽しかったかと言われると微妙である。自分の気持ちを言葉にできたことなんてそうそう無かったのだから。

 

 吃音者は自身の吃音を隠そうとする。別にバレても何でもないというか、もうバレていてもひたすら隠そうとする。傍から見ると「頭かくして尻隠さず」なのだが、吃音者はDNAにそれが刻まれているかのように、吃音を見せようとしない。笑われ、蔑まれるのを恐れて。本当に哀れである。

隠そうとするのに最も使われる方法として「置き換え」というものがある。これは単純にどもりそうな言葉を置き換え、どもらない言葉で話す方法である。成長すると語彙が増えていくので、この置き換えによって、一見するとどもっているように見えない吃音者も出てくる。ぼくもよくこの方法を使って友人と話していた。

そのため自分の気持ちよりも、どもらない方を優先して話すようになる。時にはどもらないように、自分の気持ちとは反対のことを言うこともあった。店の予約も、自分の苗字が言えないこともあったので、偽名を名乗ることもあった。もはや詐欺師である。ぼくの話す言葉には、ぼくの感情というものは乗っていなかった。

友人とのメールの文面やTwitterの呟きも、後々エピソードトークとして話すこともあるので言い易い言葉を選んで打っていた。事実を捻じ曲げてでも吃音を隠したかった。もう笑われたくない。そんな深層心理があるのだろう。吃音が出てしまったときの、周囲の人の何とも言えない表情を見るのは心に刺さる。

 

 進路も当然狭められた。もともと金が沢山もらえる職業に就きたかった。それこそ、自分の力で給料が上がり出世もできる営業職になりたかった。しかしそんなもの土台無理な話である。自分の名前すら満足に言えないのだから。人と話さなくて良さそうという理由で、研究者になろうと思った。そのために理系を選んだ。

進学先も自己紹介で言い易い名前の高校、大学を選んだ。中学の自己紹介で、出身小学校を言うときに酷くどもったからである。地元には灘、開成などのレベルに近い高校があるのだが、断念した。高校名が言えないから。大学の学部も、就活を見越して言い易さだけで選んだ。我ながら馬鹿らしい進路の決め方である。

唯一吃音に左右されずに選んだものは妻である。妻の名前を言うときは毎回どもるのだが、こればかりは吃音に縛られたくは無かった。妻がまだ彼女だった時代、ぼくは他の友人に話すのと同じように、置き換えで流暢に話していた。しかしいつまでも虚言で接するのは辛かったので、カミングアウトした。彼女はそれを受け入れてくれた。

それからはどもっても良いので自分の気持ちで、自分の言葉で話すようになった。幼稚園児の頃ぶりに素で話せていた気がする。なんとも幸福な時間であった。やがて娘が生まれ、もう未練も無くなってしまった。自分の遺伝子を持った人間がこの世で生きていくのだから。

 

 吃音者には「置き換え」の他にも独自の手法で吃音を隠そうとするらしい。ぼくの独自の手法は「機械的に話す」ことである。抑揚をほとんど無くし、棒読みに近い発声で話すことで吃音を隠そうとしていた。友人やネットで通話する知人には「感情が無い」「サイコパス」などと揶揄されていた。言われてみればそんな気もする。ぼくが話す言葉には、感情などこもっていなかったのかもしれない。

そんなこんなで吃音に立ち向かってきたわけだが、もういい加減嫌気が差していた。入社してからの研修では、グループワークや全体発表など人前で話す機会が数多く用意されていた。グループワークでは自己紹介の度にどもり、全体発表の際には当てられないかびくびく怯えながら時が過ぎるのを待っていた。

実家の両親にも話したが、返ってきたのはいつも言われてきた言葉と同じ「乗り越えろ」である。母親は色んな事例を紹介してきて「せっかく掴んだやりたい仕事でしょ?(紹介した事例の人たちみたいに)もうちょっと頑張ってみたら?」と言ってきた。ハハハ、ピントがずれている。ぼくは別に研究職になりたくてなったわけではない。人と話さなくて良さそうだからなったのだ。研修によると、企業の研究職は発表の連続みたいだぞ。そんなところにしがみつきたい訳無いじゃないか。

 

 人と接することは早々に諦めて、自然に向き合えば良かった。田舎で農業でもやりたいと思っていたが、もうそんな気力も無い。ぼくの名前は「土を耕す」と書くが、初めから自然と触れ合う方に進めば良かったのかもしれない。後悔先に立たずである。

ぼくを拾ってくれた優しい御社の名誉のために言っておくと、入社以降の出来事は最後の一押しに過ぎない。溜まりに溜まった我慢のダムが、研修の雰囲気で決壊しただけである。研修中に酷い扱いを受けたり、責められたりしたわけではない。ゼリア新薬のようなことがあったわけではないと明記しておく。

 

 もういい加減疲れてしまった。人事に相談すればそれなりの配慮を受けるだろうし、少しは働きやすくなるだろう。でももういいのだ。そこまでしてもらって嬉しいのか、自分らしい人生が歩めるのか甚だ疑問である。

ぼくは普通に話せる人がたまらなく羨ましい。普通の人たちが人間関係や能力不足などで悩んでいると、コミュニケーションで解決できるじゃないかと思ってしまう。そしてついつい攻撃してしまう。羨ましいと同時に全ての健常者が憎かった。そういった背景もあり、兄をついに好きになることができなかった。何故話せるのに引きこもっているのか、不思議でならない。

いつも「吃音が無ければどんな人生だったのだろう」と考えていた。答えは出ていないし、一生答えは出ないだろう。一生が残りどのくらいかもわからないし、自分で時計の針を進めるかもしれない。

娘に吃音症が受け継がれないのが唯一の救いである。ある研究によると、吃音症に遺伝性は確認できなかったという。本当に良かった。その通りであって欲しいし、娘には自分の意思以外のものに左右されること無く人生を謳歌してほしい。酷く歪んだ人生を歩くのはぼくくらいで十分だ。こんなことを言う資格は無いかもしれないが、幸せになってほしい。

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