紆余曲折

いろいろあった。

出産

 Youtubeのサジェスト欄が「赤ちゃんがすぐ寝る音楽!」みたいな動画でいっぱいになってきた。腕を怪我してしまうと、娘を寝かしつけるのはなかなか難しい。

娘は現在生後3ヵ月。アーやウーといった鳴き声を発するようになっており、もうすぐ首がすわりそうである。体もすくすくと成長し、体重は産まれた時の2倍、身長は10cmくらい伸びた。妻も長時間抱きかかえるのは辛そうである。

首がすわると次は一人座り、ハイハイ、つかまり立ちなど色々な成長が待っている。今のところ順調に成長しているので、今後も健やかに育つことを願うばかりである。

 

 娘が産まれたのは12月21日、冬至である。カラッと晴れた寒い冬の日だった。ちなみに予定日はクリスマスの25日だった。

午前5時半ごろ、妻が下腹部に違和感があると言い出してトイレに行った。帰ってくると「少し破水している」と言う。「陣痛が始まったら病院に連絡してくれ」と産婦人科医に言われていたが、破水している場合はすぐ入院である。妻が病院に電話している間に入院の荷物をまとめ、各所に連絡して7時過ぎに病院へ向かった。

午前8時過ぎ、検査のため妻は分娩室へ。1時間ほどして陣痛室に移動した。この時に陣痛室の存在を始めて知った。内部は椅子と布団がある簡素な部屋で、すぐ横がナースステーションになっていた。少し妻と話した後、出産のための替えの服を取りに家に一度戻ることにした。

午前11時ごろ、主治医に診てもらう。破水は少量であるため、出産はまだまだ先になるとのこと。「早くとも夕方、多分夜に産まれるだろう」という言葉を受け取り、妻は分娩室へ、ぼくは母親と叔母と3人で昼食を食べにモスバーガーへ行った。

午後12時半、研究室のゼミがあるため大学へ向かう。医者からは早くとも夕方と言われていたので、タイムスケジュールの管理は完璧なはずだった。急行電車に乗って数分後、叔母から本陣痛が始まったとの報を得る。おい、医者。

陣痛は2種類あり、一般的に陣痛と呼ばれているのは「本陣痛」である。もう一つの方は「前駆陣痛」といい、こちらは陣痛の間隔が長く痛みを弱いらしい。前駆陣痛から本陣痛に変わり、陣痛の間隔が30分から段々と短くなっていく。陣痛の間隔が10分くらいになったら所謂「陣痛が始まった」状態であり、産婦人科に行く目安である。

午後1時過ぎ、大学の最寄り駅に着く。5分ほど歩き、研究室へ。報告内容をまとめている最中、スマホのバイブが鳴った。通知を見てみると、赤ちゃんを抱えた母親の写真が叔母から送られてきた。どうやら産まれたらしい。父親になる瞬間を大学の研究室で迎えた稀有な人間になった。

午後5時前、出産が終わってしまい最早急ぐ理由が無いので予定通りゼミに参加し、そのまま病院へ。我が子との初対面である。小説や映画で赤ちゃんと対面して泣き崩れる父親が描かれることがしばしばあるが、そうはならなかった。そうなりたかった。

 

 第一印象は「髪が多い」である。産まれてからずっと色んな人に毎回言われることになる印象だが、ぼくも同じ印象を我が子に抱いた。写真や映像で見る新生児は髪が少なく、猿のような顔をしている子が多い。しかし娘は妻の毛量とぼくの鼻の高さを受け継いでいるようで、産まれたときから人間の顔をしていた。

まぶたには少し皺が入っており、二重か奥二重になりそうだった。五体満足で、体重も2974gと健康体であった。貧血気味であった妻の体も何の問題も無いようで、出産が悲劇にはなることはなかった。

しばらく娘を見つめていると、担当の看護師が経過を見に来た。ぼくの顔を見るなり、「赤ちゃんと似ていますね」と声を掛けてきた。大阪から駆け付けた義母も同調した。少し嬉しかった。

看護師の所見では、もう居室に移動しても良いということだった。実母の意向で個室に入院することになっていた妻を部屋に誘導し、出産の話を聞いた。ちょうど夕食の時間だったので、義母が御飯を妻に食べさせてもらいながら妻は主に出産の痛みを語った。

 

 通常の妊婦は、陣痛が始まって10~15時間ほどで子供を産むらしい。妻の場合陣痛が始まったのが8時くらいなので、産まれる予定は医師の言う通り夕方から夜にかけてだっただろう。

しかし妻は陣痛からたった5時間で産んだ。通常の半分くらいの陣痛しか体験することなく終わったのだ。喜ばしいことである。看護師や義母実母は、妻に「普通の半分しか陣痛なかったから大した痛みじゃない」と言っていたが、妻は不満そうであった。痛い思いをしたのは同じだから、大したことないと言われたらそりゃ不満だろう。

出産前、土屋アンナが分娩室に入って2時間で子供を産んだらしいという話を妻にすると、「あり得ないでしょ」と笑いながら言っていた。しかし妻は分娩室に入って1時間ほどで子供を産んでおり、土屋アンナの記録を超える速さである。看護師や母親連中が色々言いたくなるのも無理はないのかもしれない。

 

 世話になった病院では、個室に限り付き添いで同じ部屋に1名泊まれるシステムだった。遠い妻の故郷からやってきてくれた義母に付き添いをお願いし、午後9時に帰宅した。友人たちに出産の報告をし、父親になった事実を噛みしめてみたが、いまいち実感が湧かなかった。かといって落ち着いて布団に入れなかったので、ソシャゲをやって一夜を明かした。

それから5日ほどで退院、娘との暮らしが始まった。オムツ替えや抱っこの仕方など色々勉強しながら、当時締め切りが1ヶ月に迫っていた修論に取り組んだ。年の瀬には中学の友人たちも家を訪れてくれ、祝福してくれた。驚かせるために結婚と懐妊の報告を意図してしていない友人は茫然としていたが。

 

 娘の名前は冬至の風習である「柚子湯」から一文字貰い、「柚」という字を名前に入れた。柚子湯のように人の心を温めてほしいという願いと、植物のように根がしっかりとした人間になってほしいという思いからである。

数年前は人の揚げ足取りや嫌味を言うのが大好きだったのに、今や一人の人間の将来を案じるようになっている。塾の講師の影響も少なからずあると思うが、結婚や出産という人生のビッグイベントを経て少しは他人のことを考えるようになった。自分本位の考えを改め、他人を自分の中に引き入れた、そんな感覚である。

冬至の日を思い出しながら書いてきたが、あの日のことは鮮明に覚えていた。24年の人生の中で一番大きな出来事なのだろう。先に書いた通り、娘に初めて対面した時にはドラマのような感動は無かった。それでも何か決意のようなものは抱いた。この決意を胸に生きていこうと思う。